まもなく、3月11日。
ニュース番組では連日、東日本大震災の情報が流れている(気がする)
あのとき私は何を思ったのだろうか?
どれだけの人が関心を抱いたのだろうか?
もうかれこれ5年が経過する。
ニュースで東日本大震災アーカイブスについて放送されていた。
震災の出来事をしっかりと残しておこうという取り組みだそうだ。
見たことない人は見るべきだろうと思う。
【出来事を残す】と、いうことから、東北にボランティアに行ったときの事をブログという形で残しておこうと思うわけです。
私はずっと大阪に住んでいたけど、あの衝撃的な映像は今でも震えます。
次の日にいつも通りに会社に行って「すごかったね」みたいな会話が違和感すぎて本当に気分が悪かった。
それどころじゃないだろっ!!って思っていても、世界が回るのか、何もできなかったし、何もできない。と思っていたし、そんなもんだろうとも思っていた。
「自分には関係がないことだ」と、無理やり思うようにしていたかもしれない。
そのうち、震災という肩書を使って企業が何かと動き始めた。
節電だ。節約だ。募金だ。
それが現地の人のためになるのか?何をお祭り騒ぎしてるのか!?
※個人の感想です。決してすべての企業にはあてはまりません。
心に違和感と何か怒りのようなものを抱きながら当たり前の日常を過ごしていた。
でも、急に。
ホントに急にね。
現地に行かなくてならないだろう!!
何事もなく過ごしてるのがおかしいだろ!!
と、なんの宛てもなく、深夜バスに乗り込んでいった。
それが、あの震災から7か月後の2011年10月、私は東北に地に立っていました。
何ができるかわからないまま到着したのは、
塩釜市だ。
そのときの塩釜市は信号も機能せず、道路もボコボコで車はほとんど走っていない。
その塩釜市で写真の洗浄ボランティアの募集をしていたので、塩釜市の小学校へ行きました。
小学校は高台になっていて、当時の避難のすごさを感じさせてくれました。
関西から来たのは私がはじめてだったとのことで、ともても喜ばれました。
フジフィルムの方が主催だそうで、
大量に流れ着いた持ち主不明のアルバムにバクテリアが付き、写真が侵食されて真っ白になるのだそうだ。
それを水洗いし、写真がバクテリアに食べられないようにする。というボランティアだ。
ダンボールに山詰みのアルバムたちと、乾かされている写真たち。
写真は本当に様々で、生まれたことから成人、結婚、人生そのものだ。
その持ち主の生死もわからない。心苦しかった。
膨大の量の写真を洗った。来られた方は現地の方がほとんどで、津波が引いた後自宅がなかったとか、他の人が住んでいたなど、いろんな話が聞けた。
信号すら動いていない塩釜には移動できる交通手段が電車以外なく、いったん仙台に戻る。仙台の駅は震災なんてなかったと感じるくらい人が多く、それもすこし違和感があった。
仙台でレンタカーを借りて次に向かった先は
南三陸町だ。
気仙沼にも行く予定だったけど、TVよく放送されていた場所だったので、見てみたかった。
すごく遠かった記憶がある。
深夜になってしまった。深夜の2時ぐらいについた。
カーナビではそこだったが、本当に怖かった記憶がある。
カーナビの情報とその場所はあまりにも違うくて、本当に怖かった。
あたりは光ひとつなかった。ガードレールや電柱はひしゃげてしまって、
道もでこぼこ、急に道がなくなったり、湖のようなところに入りそうになったり・・・
カーナビに出ている、旅館、信号機、ガソリンスタンド、何もかもがなかった。
道を引き返してコンビニで一夜を明かした。
早朝の5時くらいに南三陸町を歩いているとみんな海の方へ向いて祈りをささげているようだった。私に何かできるのだろうか?すっごいいろいろな思いが駆け巡り涙があふれた。無念だった。本当に。胸が張り裂けそうだ。
まだ7ヶ月しかたっていない。助け合ってなんとかしようっていろいろな人が集まった形跡や、作業していたであろう場所もたくさんあるし、看板も出ていた。
「ここに私たちはいます」という生還しているサインだ。
本当に日本とは思えなかったけどここまでくると現実だっていうことがわかる。
心が打たれる。
今でもできることがある。
次に向かったのは
気仙沼市だ。
気仙沼市は巨大な船が道のど真ん中にある。
車の大きさからどれだけ巨大な船か驚くばかりだ。
あの巨大な船の横を学生たちは自転車で通り抜けて学校へ行っている。
現地でお話しを聞くと写真を撮りに来る人が多く、ピースしている。
それがとても不愉快だという話を伺った。
確かにおばちゃんたちが集合写真や指で刺しながら写真と撮っている。
その近くでは自宅があったのだろうか、30代くらいの男性が手を合わせている。
そのまま気仙沼の学校へ
塩釜市のボランティアで、気仙沼でも写真のボランティアをやっているので、この人を訪ねておいでよ。という話から立ち寄った気仙沼の市役所。
ここでも他のボランティアチームが無限ともいえる写真を洗浄し、さらにデジタル化をしていた。
どうしても写真が、思い出が消えてしまうので、できる範囲でデジタル化し修復するのだという。
ボランティアの人たちはホントにボランティアで住み込みで何かできること役に立つことをずっと続けている。本当にボランティアなんだ。自分のことは自分でやるのは当然のこと、費用も時間も関係なく行っている。半年滞在している、3か月滞在している。そんな話を聞いた。
別れを告げて、次に行っておいでと言われた場所へ。
陸前高田市だ。
車で走りながらとんでもない光景だった。
大型トラックが大量に行きかい、ガレキで道路の両サイドが埋め尽くされているようだった。ガレキ以外はボロボロの建物か、平らの平地となっていた。
放置される車はまだまだたくさんある。
ところどころに海水が上がってくるらしく、あちこちに水たまりができて以上の光景だった。陸前高田市のボランティアセンターへ行くように話をいただき到着した。
たくさんの人が集まっていた。バスもたくさん止まっている。
ボランティアを受け入れる体制がとても整っていると感じた。
組織的にかなりできている。
ボランティアの内容は
「市役所からの要請」と「住民からの要請」と二つあり、挙手で誰がどこに行くのか決めていた。
注意書きもしっかりされている、いろんなものがそろっているように思える。
私は土木関係の方々と一緒に住人の家の清掃、土石除去のボランティアを行うことになった。一緒になった方々は同じ会社の方が4名、個人の方が私を含めて4人。合計8名だ。
家の修復作業だけど、ボランティアセンターで注意の話を聞いた。
7ヶ月経過していても人骨がまだまだ見つかるらしい。
怪しいなと感じたものは持ち帰ってきてほしいというのだ。
また、作業中にもセンターの人が見回りや声をかけてくれる。
ケガがないか、おかしなことがないか。などだ。
一日中の作業だったけど、そこに住む人の役には立てたようだ。
工事や修復をするにもとにかく人でが足りないのだという。
ボランティア活動が終わってから、みなさんと一緒に陸前高田市を車で回る。
すぐに暗くなってしまってあまり見ることができなかったけど、パトカーがかなりウロウロしている。物取りがいるそうだ。
たったの3日しか私は何もすることができなかったけど、衝撃なことばかりだったし、いろんな問題も見たし、外から物事を見るのと、中から見るのでは全然話しが違う。
ボランティアの人の中にはバスでお酒を飲んでくる人がいたり、旅行気分で来る人もいるけど、そもそもバス会社がお金を取ってボランティアツアーなんて打ち出したりしてるのだから当然と言えば当然だし、何か月も滞在している人ならワイワイ騒ぎたいときもあるだろうし・・・・何が正しいかはわからない。
現地の人はみんな悲しんでる?いやいや、それを乗り越えてやってやるって人もたくさんいてる。いろんな人がいてるわけだ。
それを現地に来もせずにあーだこーだ言ってることがなんだか不思議で仕方がない。
5年しかまだ経過してない。
何が変わったのか?何もかわっていのか?
どうなっているのか?復興はしているのか?政府が悪いのか?
人はいないのか?私もわからない。
それは現地に行ってからしかわからないのだから、
みんなで見に行こうよ!話はそれからじゃないのかな??
※すべて個人の感想と、体験談です。あしからず。(/ω\)
2011年の東北写真。すごい数を撮影したのにデータが残ってませんでした。
自身の記事をまとめようと思ったきっかけを作ったのは下記
非常に興味深い記事をかかれておられます。私も感じていた。
3年前の震災直後に起きたおかしな8つの現象~過ちを繰り返さないために : ブロガーかさこの好きを仕事にするセルフブランディング術